「福島でわたしが目にしたのは、積極的に情報を知りたい、対処するためにリスクを学びたいという人々でした」

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Profileリアナ・トゥールさん
放射線専門家。オランダをベースに国際環境NGO グリーンピースの放射線防護アドバイザーを17年間務める。1986年のチェルノブイリ原発事故の影響が大きかった地域や、イラク、ブラジルなど各国の放射能汚染の現場で調査や防護活動に携わる。2011年、福島第一原発事故直後の福島県内の放射能測定調査に参加。

「原発事故発生後すぐの調査での、最初の数日の光景は、今でも鮮明に頭に焼きついています。グリーンピースが行っている毎年の調査に継続して関わることはできていませんが、2011年からずっと、福島のことを忘れたことはありませんし、絶対に忘れられてはならないことだと思っています」

東京電力福島第一原発事故から二週間が経とうとしていた 3月下旬、国際環境 NGO グリーンピース・ジャパンの要請で数カ国から集められた放射線防護アドバイザーの一人として、リアナ・トゥール博士は福島県の測定調査へ向かった。

鮮明に焼きついている光景

福島県北部に隣接する山形県米沢市は、東電福島第一原発から約 90キロの距離があり、山々に囲まれている地形から、放射能汚染の影響をあまり受けていない地域だった。そのため、当時福島県内から避難してきた人々も多かった。調査チームはその山形方面から、福島県へと入った。

放射能測定調査は、東電福島第一原発の北西地域を中心に、数日にわたり行われた。山を越えて福島県福島市に向かう車中で、東に向かうに連れ、ガンマ線スペクトロメータ(放射能測定器)の数値が少しずつ上昇していった。福島市は、同原発から西に約 60キロにある。その福島市内で、明らかに確認できるレベルの数値が出たことに、リアナさんはショックを隠せなかった。

「福島市でこの値なのであれば、原発付近はどれだけ酷いことになっているのかと。その時点の深刻さだけでなく、これは長期的な影響は避けられないだろうと思いました。私が見てきた、チェルノブイリに相当するような、人が立ち入れない土地を生むにことなってしまうかもしれないという懸念が頭をよぎりました」

郡山市や福島市などの中通りの都市部では、生活の中で、放射能汚染に対するさらなる防護や対策が必要と判断される状況だった。しかし、店や通りは普通に人で賑わい、何もなかったかのように街が動いているために、特に都市部の風景はどこにも増して非現実的な印象だったと、リアナさんは当時を思い返す。

「その時は、ほとんどの住民は汚染について知らなかったんだと思います。気づいていたとしても、それがどの程度のものか確かめるための機材を持っていなかった。公園や学校近辺を測定したとき、子どもたちが外で遊んでいたのを、よく覚えています。その際、子どもたちに危険なレベルの放射線量が集積しているスポットが見つかったため、報告しました。その区域は閉鎖され、のちに行政によって除染されたと聞きました」

同原発から約 45キロ離れた高地にある飯舘村では、3月下旬時点では避難指示は出ていなかったが、すぐにでも人々の避難を要するレベルの放射能汚染が確認された。

この初期の調査後、避難指示が出た同原発から半径 30キロ圏を超えた40キロ圏以上でも高レベルの放射線量が検知されたことから、グリーンピースは、指定圏外の避難地域設定と、子どもと妊婦の優先避難、さらに地域住民への情報・支援提供の必要性を日本政府に訴えた。

見えにくい被害と想像力

世界の原子力産業界にとって「あのテクノロジーで名高い日本で原発事故が起きた」ということは衝撃的な出来事だったと、リアナさんは話す。

1986年のチェルノブイリ原発事故の際、原発を引き続き推進したいヨーロッパの専門家の中には、同事故はソ連(当時)の安全管理がずさんであったというソ連特有の問題と結論づけたがる向きがあったという。一方、実際は違うとしても、発展した技術を持つという印象の日本での原発事故は、「あの日本で防ぎきれなかったのであれば、どこの国でも起こり得る」と捉える人も少なくなかった。

大きなショックを受けたのは原子力業界だけでなく、もちろん市民も同様で、東電福島第一原発直後から数年間は、日本国内だけでなく、ヨーロッパを中心に各国で脱原発のムーブメントが膨らんだ。ドイツなど、政府が脱原発の方針に素早く転換する国も出てきたが、市民による反対運動は年月とともに萎んでいった。

原子力災害の被害は目に見えにくいゆえに、忘れられやすいということはあるだろうが、それだけだろうか。特に現代の凄まじい情報化社会で、人々が素早く処理できるわかりやすい絵を求めていることが、さらに丁寧な読解をしにくくしていると、リアナさんは感じている。

「SNS の映像では数秒でストーリーを理解しますよね。放射能の拡散や被害は、化学工場の爆発や大洪水のように目に見えて物が飛んだり流れたりしません。チェルノブイリのときの記憶から、奇形の動物や病を患う人であるとか、わかりやすいショッキングな絵を人々やメディアは期待しているのかもしれませんが・・・被害というのはそれだけではないのに」

「悲惨な状況から、その汚染された場所で地に足をつけて立ち上がる人々もいれば、暮らす場所を移して立ち上がる人々もいた。いずれにせよ、そうした人々に対する無理解は多くあったでしょう。日本で『原発事故による死者はいない』と原発推進派の人々はよく言いますが、どれだけの影響を住民たちが被ったかを考えると、非常に無神経ですね」

原発事故から間もない頃も、10年経った今でも、どれだけの人が事故や事故の被害について正しく理解できているのだろうか。福島の近くに住む人や原発事故を経験した人であっても、曲解している場合もあるだろうし、日本ではない国に住む人や、原発事故後に生まれた人でも、理解が深いこともあるだろう。どのような立場であっても、得た情報からどれだけその先に想像力を働かせられるかが、理解に近づくための、また過ちを繰り返さないための、大切な一歩だ。

市民の歩みを支えること

放射能について、日頃からよく知っている一般市民は少ない。それが目の前に現れたとき、多くの市民は、まずはそれが何なのか、どういったリスクをもたらすのか、一から自分たちで学ばなければならない。福島でも、チェルノブイリでもそうだった。

「日本の市民はとても学習に熱心で、事細かに放射能について調べ、学んでいました。それは驚くほどに。測定方法やデータの読み取り方をゼロから習得し、素人からエキスパートになった人々もいました」

リアナさんは、イラク戦争後のイラクやニジェールのウラン採掘地帯など、著しい放射能汚染を被った地域での調査の経験を持つ。日本の放射能に対する市民の反応を見て、他地域で汚染に戸惑い、苦悩した人々のことも想起した。

ニジェールのウラン採掘の現場近くの村々では、住民たちは非常に貧しく、放射性物質の危険性にも気づいていなかった。放射線の数値を伝えると、それは心配だと言うが、貧しすぎて何も防護の術がなかった。イラク戦争直後のイラクでは、発見された核施設付近の村に深刻な放射能汚染がみられたが、そこでも貧しさゆえに住民ができることは非常に限られた。調査団は、汚染された物を家の敷地から出すよう、人々に呼びかけた。民家脇に危険なレベルの汚染地帯が見つかったため、人が立ち入らないよう、フェンスとサインを立てたが、翌日には住民により撤去されていた。

「自分の家の付近が汚染されているということに、負い目を感じたのだと思います。村などの狭いコミュニティの中では、それは汚名となる。だから、むしろ知らせてほしくないと」

「福島でわたしが目にしたのは、積極的に情報を知りたい、対処するためにリスクを学びたいという人々でした。もちろん国の経済水準、背景の違いは大きいと思います。文化や教育の違い、理由はいろいろあるでしょう。時代背景として、インターネットの普及の有無の違いもありますね。普及していたとしても、イラクやニジェールのその地域の人々は入手できていたかわかりませんが」

こうした放射能汚染に侵された国の人々の環境は大きく異なるが、終わりのない不安、政府や汚染を引き起こした管理企業の無責任さなど、共通する部分もある。そして、どの地でも、被害に遭った市民たち自身がそれぞれ生き抜いて行く道を探り、決断し、歩みを続けていく。

「福島の人々は強いな、と思っています。でもそれに任せず、私たちにもできることはある。離れていても、ずっと福島の人々をサポートしていきたい」