「放射能汚染は避けられない問題ですが、それを『どうせ戻れない場所だろう』で終わらせていいのか。ここから、どう村づくりをしていくのか」

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Profile佐藤 健太さん
飯舘村で生まれ育つ。飯舘村商工会青年部長をはじめ、複数の事業や団体の取締役や理事を務める。東電福島第一原発事故まもなくから、村を再建していくための多くのプロジェクトに関わったのち、2017年より飯舘村議会議員となる。

高原に開けた福島県飯舘村は「日本で最も美しい村」に認定されるほど風光明媚な場所として知られ、農業が盛んな自然豊かな場所だった。今でもその美しさは変わらないが、ある日を境に、別の不名誉な称号を村は持つことになる。東京電力福島第一原発事故の発生後、同原発から半径 20キロ圏が警戒区域とされ、強制避難指示が出されたが、45キロほど離れた飯舘村は警戒区域外だったために避難指示が出なかった。国から全村避難の指示が出たのは原発事故から一カ月以上経った 4月22日だった。

全村避難までの無用な被ばく

のちの国や民間の調査により、3月15日の東電福島第一原発の爆発により出た放射能雲(プルーム)が、風に乗って北西方向に流れ、飯舘村の上空付近で雨と雪になり、地表に落ちたことがわかっている。飯舘村は津波・地震による被害はほぼなかったが、この不運な降雨により、原発から距離があったにもかかわらず村一体は高濃度な汚染に見舞われた。

村が汚染されているとわかっている村民も少なからずいたが、それが何を意味するのかの理解は人それぞれだった。危ないのであれば避難しようという人もいれば、とどまる人もいた。放射性ヨウ素の影響を強く受ける放射能拡散の初期、公式な避難指示が出るまでの約一カ月のタイムラグは深刻なものだ。

「国・行政と専門家の間で空中戦のような議論をしているその下に、村民が置かれていた感じですね。上空での論戦は勝手にやってもらって構わないけれど、その間にも無駄な被ばくにさらされている村民がいた。人々を安全な場所に移動させてからでも議論はできたのではないかと」

原発事故以前より、飯舘村内外で地域のためのさまざまな活動を牽引してきた佐藤健太さんは、事故直後の混乱の様子をそう振り返る。

「村としては、国の避難指示以前に村主導で住民を移動させてしまうと、保障や賠償等で後で不利益があるかもしれないとみて、上の指示を待たざるを得なかった事情もあったのかもしれません。でも、年間の公衆被ばく限度を一日で超えてしまうような線量の中で放置されていたことは明らかだったので、行政への不信感は募りました」

村政に吹き込まれた風

震災直後、佐藤さんは、住民の安全のためになんとか情報をつかみ、村の危機的状況を外へも伝えて助言や支援を得るため、SNS を通して積極的に情報を発信した。福島市へ避難をした後も、複数の団体の設立、国内外での講演やイベント開催などを通し、飯舘を場所として、コミュニティとして、維持・再建してくために奔走した。2017年、満を持したように、佐藤さんは 35歳で飯舘村の村議会議員となった。

「前村長は非常に強いリーダーシップがありましたが、別の言い方をすると、村民不在に感じられるような強引な部分もありました。いろいろな村の決断に対して、反対意見を土俵の外から言っていても出口がない。同じ土俵にまず立つというのが第一歩だと。これまでのすべての活動は、議員となるまでの準備期間だったのかなという気もします」

当時の村議会は、ほぼ前村長の決定事項をそのまま承認するだけの機関となっていた。震災後、村には莫大な復興予算がつき、村民が必要としていないものが次々と購入され、箱物が建てられ、意見を述べれば「村の復興を妨げるのか」と言われた。復興予算を消化しようと、人々の合意形成なしに行き急ぐ行政に、ますます村民が置いてきぼりにされていくと、佐藤さんは感じた。

除染で出た廃材* を燃やす焼却施設も村内につくられた。復興に資するもの、と行政が判断し、理解を求められたら、村民は何も言えない。村内の除染廃棄物だけでなく、村外で出た汚泥* なども焼却する。飯舘村民が避難した周辺の自治体から出た廃材の受け入れについては「村民が避難させてもらった恩返し」という、またも否定しづらい理由づけさえ聞かれた。

行政中心の意思決定のプロセスをなかなか切り崩せず、苦い思いをしていた佐藤さんは、トップダウンをボトムアップの村政へと切り替えるため、2020年の村長選に出馬表明する。その表明とほぼ同時に、六期務めた古株村長の引退と、友人の若手役場職員の立候補が伝えられたため、佐藤さんは出馬を取り下げた。世代交代は達成されたと考えたこと、また、これからの村づくりを担う世代が選挙によって二分されてはならないと考えた結果だった。これからは志が近い村長を議会側からサポートしつつ、議論を重ね、村の変革を進めていきたいと考えている。

除染と帰還

佐藤さんが村議となった 2017年、飯舘村は「計画的避難区域」から「居住制限区域」へ、その後「避難指示解除準備区域」となった。除染を経て帰還が促され、復興予算が投入され、スポーツ公園や道の駅などきれいな施設や建物が次々と建てられた。

環境省による除染は、宅地・農地・山、という区分けで行われるが、宅地は家屋やその周り、農地は作つけ面のみの除染で、田畑脇のあぜ道等は除染対象外。山にいたっては、林縁から 20メートルの範囲にある落ちた葉や枝を取り除き、下枝を切るなどして「除染完了」としている。「除染」した場所の線量は下がるが、森の中に入り込めば当然高い線量のままだ。村内にはまだ、政府の長期除染目標である毎時 0.23マイクロシーベルトよりもはるかに高い地点がいくつもあることが、NGO の調査でわかっている。

「特に山については、除染の効果はあるのかな?と。植物は放射性物質を根から吸って循環させてしまっているし、再汚染もある。飯舘は森林面積が村の 75%もあるんです。山は大半が除染されていないといっていいので、村の山林資源の半分を失ったように感じています。飯舘はほんとうに美味しい山菜やきのこが多く採れるんですが、そういった山のめぐみを採って食べるという喜びを感じることは、この 10年まったくできていないし、この先も当面難しいです」

原発事故前は 6,400人ほどだった人口は、村のホームページによると 2021年 2月現在で 5,259人。しかし、その数は村に住民票を置いているというだけで、村外に住んでいる人がその大半だ。帰村率は二割ほどで、実際に村内で暮らしているのは約 1,400人。このことは単純に、放射能汚染の実状やそれに対する懸念だけではなく、それぞれの複雑な事情を含んでいると、佐藤さんは話す。

「避難するより戻るほうが何倍も難しい。戻れる・戻れない、戻りたい・戻りたくない、だけの話ではないんです。避難するときは放射能汚染から逃れるために外へ出たわけですが、戻ってくる際には、考慮しないといけないのは汚染だけではない。個人の帰還の選択の問題はデリケートです。10年の中で、避難先で築いた生活や、変わってしまった家族の形もある」

避難者の中には、住宅支援が打ち切られ、意志に反して帰還以外選択肢がないという人もいれば、自分の意志でいざ戻ろうと決めても、さまざまな事情をクリアしなければ、実行にたどり着けない人もいる。佐藤さん自身も、福島市に避難している間に結婚して子どもも生まれ、避難先に生活基盤がある。現在福島市から飯舘村へ通勤している形になるが、配偶者が飯舘出身者ではなく、子どもも村をまったく知らないとなると、戻る理由も少ない。若い層だけの話かというとそうでもなく、リタイア世代は、戻って悠々自適に畑でもやろうという人もいるが、買い物場所や病院が遠いなど、生活インフラの問題もある。年配者は帰村する、というわけではない。

かといって、このまま人口が減り、故郷をなくすようなことになりたくない、と佐藤さんは強調する。放射能汚染は避けられない問題だが、それを「どうせ戻れない場所だろう」で終わらせていいのか。ここから、どう村づくりをしていくのか。

「放射線量のことを考えると、飯舘が暮らせる場所になる可能性は 10年、20年という単位であることはよくわかっています。まだ暮らす場所にはなれなくても、まずは村外から働きに来てくれる場所、通う場所になれるように、環境づくりをしていく。そうした〈きっかけ〉はもうできていると思うんです。暮らすためには?は、これから。長期戦です」

時代の先を行く村

佐藤さんは、飯舘を「30年後の世界にタイムトリップした村」と表現する。地方の農村が元々抱えていた諸問題に加え、放射能汚染やそれに伴う避難によって人口がさらに激減し、村はより進行した問題に一気に対応しなければならなくなった。

文明は進化していないのに、減退しきった環境に急に放り出されてしまったコミュニティ。子どもや若者がおらず、村には年配者ばかり。そんな中で自立した村をどうやって維持していくのか、有り余る農地を活かしていく方法はなにか。飯舘村は、さまざまな問題に実験的に一足先に取り組むことになる。

日本全国の地方に少子高齢化が進む過疎地・限界集落は多くある。飯舘村が今対峙している問題に解決方法を見いだせれば、将来に向けて、先に答えを提示することができる。村がいま進めている取り組みが、どこかの地域の役に立つことにあるかもしれないと、佐藤さんは語る。

太陽光発電を増やし、原発や化石燃料の電力に依存しない地域づくりも進めている。2020年には、太陽光と風力を組み合わせた国内初のクロス発電施設も稼働を始めた。農業には当面使えないと判断された農地を一時転用し、大規模なソーラー発電所をつくり、全量売電している。飯舘の今後のエネルギービジョンの素案として、佐藤さんは、村内で使用してエネルギー自給率を 100% にした上に、さらに余剰分を売電できないかと考えている。そのためには村が独自に送電線を持たなければならない。電力会社が張り巡らせた送電網ではなく、自分たちの送電網で村を再びデザインしていく。村内ですべての消費電力を補い、電気代が一切かからない村を目指せたら。

元々盛んだった農業や花の栽培も歩みはゆっくりだが徐々に再開しつつあり、首都圏から飯舘村に移住する新規就農者も増えてきているという。電気も、そして農業が復活して、食も自給自足できれば、飯舘が日本で最も自立した自治体となる日もくるかもしれない。

「村の中からも外からも、飯舘の再生にいろいろな人が関わってくれている。未来はそこです。放射能汚染という、避けられない高いハードルは確かにあり、特に農業に関しては大きな課題です。でもそれは課題のうちのひとつであって、それだけではない。10年というのは、通過点に過ぎません。何も解決していないので、本当にこれから、という地点。まだまだやれることがあるということだけは、確かです」

  • *除染で出た廃材・汚泥:放射性物質を含んでいるため、一般の処理施設では処理できない。減容化施設で焼却を行う。