「ずっと避難生活を続けてきた身としては、本当にあの事故から 10年も経ったんだろうか、と。そんな実感はまったくない」

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Profile安齋 徹さん
福島県飯舘村で生まれ育つ。地元で林業や農業を営みながら、東京電力福島第一原発事故まで、60年以上を飯舘村で過ごしてきた。原発事故後の 2011年6月から避難生活を始め、各地の仮設住宅を経て、現在は伊達市内の中古住宅で暮らしている。

福島県飯舘村。のどかな山あいを通る道を外れ、斜面の砂利道を少し登った先に、小さな空き地が広がる。小さな倉庫と、錆びて打ち捨てられた車のほかには、取り立てて目を引くものは何もない。たった 3年前まで、60年以上を過ごした思い出の家が、そこにあった。

消えた我が家

安齋徹さんは、東京電力福島第一原発の事故によって飯舘村の自宅を追われ、現在は同県伊達市に住んでいる。生まれてから原発事故が起こる 2011年3月まで暮らした自宅は、長らく無人だったために老朽化が著しく、2018年 11月にやむなく取り壊した。

「たくさんの思い出があるので、できることなら残しておきたかったけどね。でも、定期的に雑草を刈らなければならなかったり、イノシシやサルなどの動物に荒らされたりして、もうどうにもならなかった。生まれ育った家がこんな無残な姿になって・・・さみしいというより、自分がとても情けなくなりました」

安齋さんは 6人きょうだいの長男として、飯舘村で生まれた。約 4キロ離れた学校に毎日歩いて通った。中学卒業後、営林署で仕事を始めた。日当 200円。草刈りの請け負い仕事をしたり、時には東京に出稼ぎに行ったりして、家計を支えた。

「ここが玄関で、このへんが台所。自分の部屋はここにあった。今はもう枯れているが、家の前には古い桜の木があって、昔は花を咲かせていて・・・」

空き地のあちこちを指差しながら、安齋さんは懐かしそうに語る。決して大きな家ではなかったが、家族と過ごした慎ましくも穏やかな生活が、昨日のことのように蘇るという。今は、台所のすぐ外にあった小さな南天の木が一本だけ、空き地の真ん中にぽつんと取り残されている。

安齋さんの自宅だけでなく、賑やかだった地域も一変してしまった。現在、飯舘村に帰村している住民もいるが、村の通りも随分と静かになった。

「本当に寂しいです。年に一度大きな祭が毎年あってね。たくさんの人が来て、子どもさんたちが踊ったりしていてね」

理不尽に歯を食いしばる日々

10年前のあの日、穏やかに回り続けていた歯車が大きく狂った。山仕事で重機を操縦していた時、ドーンと大きな揺れに襲われた。慌てて重機から降りると、立っていられないほど地面が揺れていた。幸い安齋さんの家は、地震による被害はほとんど受けなかった。

その三日後、自宅のテレビで地震のニュースを見ていると、東電福島第一原発 3号機で爆発が起きた。飯舘村は、飛散してきた放射性物質の影響を激しく被るが、その事実がわかるのは数日後になってからだった。2017年に避難指示解除となるまで、飯舘村は 6年間にわたって放射能汚染による全村避難を強いられた。

「村外に避難したのは、原発事故から三カ月以上たった 6月末です。そのとき地区の組長をやっていたこともあって、すぐに避難することはできなかったので」

福島市内の避難所生活を経て、2011年 8月に伊達市内の仮設住宅に移った。だが、部屋には畳がなく、エアコンも1台、床下は風が吹き抜け、風呂は追い炊きができなかった。

「冬は本当に寒さがこたえました。寒さだけでなく、激しいストレスもあり、急に夜中に叫び出したくなったり、外を走り回りたくなったり、精神面でも厳しい時期がありましたね。仮設住宅には、いつもいらいらしていたり、精神的に不安定な様子の人が他にもたくさんいました」

避難生活が始まったこの時は、いつかは飯舘村に戻れるだろうと思っていた。まさか自宅で再び暮らすことができなくなるとは、夢にも思っていなかった。幸い地震による被害は少なかったが、高濃度の放射能汚染のため、村全域が計画的避難区域に指定された。村南部の帰還困難区域を除いて避難指示は解除されたが、安齋さんのように原発事故前の暮らしに戻れない村民がほとんどだ。

安齋さんは、自分たちが口火を切ろうと、東電に対する集団訴訟に加わった。被災者として、脱原発デモにも参加した。だが、そのたびに心ない非難を受けた。東京での脱原発デモの際、通りかかった男性から、「まだこんなことしてんのか」と面罵された。別の女性は、わざとらしく目の前で耳をふさいだ。

「賠償金をもらっても、生活のために使うのが精一杯で、手元に残っている人なんかいないですよ。福島第一原発では、東京都民が使う電気をつくっていた。その原発が事故を起こしたことで、自分たちは避難せざるを得なかったのに」

避難先でも、住民から面と向かって、出て行けといわれたことがある。ただ、元の生活に戻してほしいだけなのに、どうしてそこまで言われないといけないのか ― 理不尽に歯を食いしばって耐えた。

結局、安齋さんはふるさとに戻らず、伊達市内の中古住宅を購入し、新たな生活を始めることに決めた。あの原発事故によって、60年以上続いた平穏な生活が、一瞬にして変わった。その変化にもがき続けた 10年間だった。

事故は終わっていない

ここ数年、東日本大震災、そして東電福島第一原発事故から 10年という大きな節目を前に、急速に復興ムードが高まってきている。避難指示の一部解除、「復興五輪」と銘打った東京オリンピック・パラリンピックの開催準備、避難生活者への医療費補助の打ち切り。安齋さんは、こうして矢継ぎ早に進む復興ムードの盛り上がりに、強い違和感を感じている。

「原発事故の後、ずっと避難生活を続けてきた身としては、本当にあの事故から 10年も経ったんだろうか、と。そんな実感はまったくない。放射線量が高いところはたくさん残っているし、そうした地域に住民を返すという政府の判断はまだまだ早すぎると思います。問題が残ったまま住民の帰還を進めるのは、とても無責任なことです」

今も残る帰還困難区域、道路に設けられたスクリーニングポイント、あちこちに積みあげられた放射能汚染土を入れたフレコンバッグ、その汚染土を運び続ける多くのトラック、いまだにふるさとに戻ることのできない住民たち ―「これが福島の現実だ」と安齋さんは言う。原発事故発生から 10年が経ち、多くの人が日常を取り戻したように見えるが、安齋さんにとっては、事故はいま現在も続いている。