「まさかあんなことが自分の身に起こるなんて、私自身もまったく思っていませんでした。みんなギリギリ自分だけは大丈夫と思いがちです。原発がある以上、あなたの住んでいる場所、あなた自身に同じことが起こらないという保証は絶対にない」

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Profile大河原 多津子さん
1985年から福島県田村市で有機農業を始める。東京電力福島第一原発事故が起きてからは、自分たちの農産物・加工品の放射線量を測定し、数値を公表して販売する「壱から屋」を起業。2013年には、野菜やパン直売所・兼カフェ「えすぺり」をオープン。農閑期には、オリジナル人形劇を上演するなど、夫の伸さんとともに幅広く活動している。

ご家族とともに有機農業を営んできた大河原多津子さんは、東京電力福島第一原発から西に40キロにある福島県田村市の自宅で被災した。事故直後の絶望感を「一滴の農薬も、一粒の化学肥料も使わずに耕してきた私たちの畑に今、放射能の塵が降っている」とインタビューで述べている。「諦めない。いつか必ず、再び豊かな農作物を収穫してみせる」とも宣言されていた言葉は、10年の月日の中で実行されている。

自責の念と決意

凄まじい揺れ、続く余震と相次いで爆発していく原発、目に見えない放射能におののきながらも、2011年 3月 11日後に大河原さんをひどく打ちのめしたのは、畑の汚染だけでなく、「この恐ろしさを知っていたはずなのに、どうして原発に反対する運動をやめてしまったのか」という自責の念だった。

「1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、遠く離れた日本でも放射能が検出され、当時長女が生後二カ月だったので、恐怖を感じました。福島県内にもすでに原発がありましたし、それをきっかけに原発について学び、反原発運動に関わり始めました。でも、その後 5人の子どもたちの育児や畑仕事など忙しさが増し、次第に運動から遠のいてしまって」

今度こそ、反対の意志表示を続けていく。日本中の、世界中の原発をなくすためにできることをしていく。そう強く心に決めた。チェルノブイリ原発事故後に、人々の中で原発に対する懸念が大きく膨らんだのち萎んでいったように、今また東電福島第一原発事故の記憶が薄れつつある。この国の土地で起きた出来事であるにもかかわらず。

「あのとき、多くの人々が原発に対するとてつもない恐怖を覚えたと思うんです。あれからたった 10年しか経っていない。この 10年間、被災した人間にどれだけの苦悩があったのか、私はこの目で見てきています。〈風化〉などということを言われると、言葉がないですね。広島でも長崎でも、被爆者の方々が自らに起きた出来事を自らの声で人々に伝えてきた。自分も語り部として生きていくつもりでいます」

生産者のプライドを取り戻すために

「有機/オーガニック」という言葉がまだあまり知られていない 1980年代から農薬を使わない農業に取り組んできた大河原さんにとって、放射能汚染の残る地域で農業を続けるという決断には人一倍の葛藤があった。「これまでずっと体にいいものをつくってきたつもりなのに、いま体に悪いものをつくってしまっているのではないか。自分たちが生活をするために、毒を含むものを売ってしまっているのではないか」というやましさのような感情に押しつぶされそうになった。

「事故発生の後に農業を再開したとき『原発近くの汚染されたところで〈無農薬〉なんてよく言えますね』というような厳しい意見をぶつけられたこともあります。自分がもし原発を誘致した側の人間だったならば何を言われても仕方がないんですけど・・・そういうわけでもないのにね。あれは本当に辛かった」

原発事故翌月の 4月、知人を通して国際環境 NGO グリーンピースの放射能汚染調査の協力依頼があり、畑の農作物の放射線量が測定された。結果、農業を続けることが可能かもしれない、という報告があり、かすかに光が差した気がした。また、チェルノブイリ原発事故後のドイツでの食物の総摂取量ガイドライン「1日あたり大人は 8ベクレル・子どもは 4ベクレルまで」を参考にして、実際に自分の畑の農作物を摂取した場合の計算と照らし合わせた。総摂取量の参考値はキログラム当たりの数字であることや、火を通して調理をすることで線量が多少減少するため、口に入るときには非常にわずかな量となることもわかった。

「2011年当時でも、10ベクレルを超える作物はほぼなかったんです。福島第一原発との間に山があることも幸いし、私たちの暮らす田村市内の土壌汚染はそこまで深刻ではないことも徐々にわかってきて。そこからさらに土壌の放射線量を下げる方法も調べて実施してきました。また農業ができる!というのは、たとえようのない安堵感でしたね」

大河原さんは、原発事故以降、国が食品に含まれる放射線量の表示を義務づけるようになるものだと考えていた。しかしそうはならず、放射能の検出がない福島県産農作物まで受け入れられず、作っても作っても売れないという状態が続く。これまで顧客へ直接農作物や卵を届ける形で販売をしていた大河原さんも、原発事故を境に契約が三分の一まで減り、経営が成り立たなくなった。このまま福島の農業を衰退させたくないという思いもあり、新たな事業を新たな方針で始めることを決めた。これまで築いてきたことがすべてひっくり返されてしまった状態からの再出発。「一から出直す」という意味を込めて「壱から屋」という社名にした。

新たな方針とは、自社で取り扱う農産物・加工品すべての放射能測定を行い、測定値と栽培履歴を明示して販売すること。風評被害によって農業をやめざるを得ない農家を増やさないためにも、正確な情報開示にしか信頼回復の道はないと考えた。福島県産の米や農産物は出荷前にスクリーニング検査が行われる決まりにはなっているが、測定値をパッケージに表示することはされていない。

放射能測定器は、友人を介して支援団体から提供を受けた。ここ数年、店で扱う食品の測定では、検出下限値* を超える値が出たことはほぼない。「不検出」の文字であっても、放射線量自体に言及することが不安を呼ぶという意見もあるかもしれないが、それが重要なのではと、大河原さんは強調する。

「日常の中で放射能汚染や原発事故について感じることがなくなるというのは、とても怖いことだと思います。そういう話はやめてよ、という人もいるでしょう。本当にまったく知らない若い人もいるかもしれない。でも、食品に表示されている〈セシウム〉や〈ベクレル〉ってなんなの?から話が始まり、こんなことがあったんだよ、と教わって、過去の事実を知ることがあってもいい。表面では何も言わなくても打ち解けて話せば、心の奥底で『悔しい、苦しい、腹立たしい』といったふつふつと湧く感情がない被災者なんていないと思うんです。さまざまなことを目に見えるよう、聞こえるようにしていかないと、なかったことになってしまう」

現在は地元や県内だけでなく、月に一度県外へも農産物を配送している。北は北海道から、西は神戸まで。福島の農家を応援したいというお客さんから始まり、会員も増えてきた。売上は原発事故前の水準とは程遠く、失ってしまった付き合いもあるが、事故後に新しいつながりや得がたい仲間ができたことは嬉しいと、大河原さんは表情を緩める。

食と電力:自給自足のロールモデル

2013年、大河原さん夫妻は「えすぺり」という野菜やパンを売る直売所を三春町に開店した。エスペラント語で〈希望〉という意味の店名に「この場所から元気と希望が生まれるように」という想いを込めた。食品の販売だけでなく、人々が集える飲食スペースや、講演会や展示会などもできる小さなホールも併設した。

「自分の店を持つなんて震災前は考えたこともありませんでしたが、あまりにも原発事故のダメージが大きすぎて、何かをやらないと持ち堪えられなかったんだと思うんです。何かを希望として持たないと、とてもじゃないけど先に進むこともできなかった。だから、借金をしてでも、無謀にも店を建てるということで、自分たちを支えてきたのかな」

2016年には、三春町のコミュニティと国際環境 NGO グリーンピースの共同プロジェクト「ソラライズふくしま」の一環で、クラウドファンディングを資金に、えすぺりの建物の屋根に 40枚の太陽光パネルが設置された。「えすぺりソーラー発電所」が発足し、市民発電所としての役割も加わった。発電した電力の余剰分は売り、足りない分は買う仕組みになっているが、店内の電気はほぼ太陽光発電による電力だけでまかなわれている。大河原さんは自宅にも太陽光パネルと蓄電池を導入し、電気を自給自足して生活している。

「自分で食べるものは自分で作りたいと思い、私は農業を始めたのですが、自分で使う電力もささやかに使えば自給自足が可能です。遠くから送られてくる電気に頼らなくてもね。これから何が起きるかますますわからなくなってきている世の中で、食べ物や電力を自分で作れるというのは、本当に強いと思います。簡単なことではないけれど、不可能でもない。プランターでの野菜づくりでも、太陽光パネルでもそれぞれが少しずつ始めることを勧めていきたい」

大学や NGO 企画の東電福島第一原発事故について知るスタディツアーで、えすぺりには県内外や国外から大河原さんの体験談を聞きに、訪問者がやって来る。放射能汚染に対峙した農家が築き、いまやソーラー発電所でもあるえすぺりには、省みるべき過去から目指すべき未来までがある。

継承と喚起のための止むなき表現

大河原さんが夫の伸さんとともに、農業と二足のわらじで 36年間続けている活動に、人形劇がある。これまで 2,500回以上、保育園・幼稚園、小学校や公共イベントなど、さまざまな場所で人形劇を演じてきた。原発事故後、大河原さんは一人舞台用の作品として、原発への問題提起をテーマにオリジナル三部作を制作した。原発がつくられてきた経緯〈過去〉、起こった事故とその影響〈現在〉、そして自然エネルギーで暮らしていく〈未来〉が各章の主題となっている。友人・知人が場を整えてくれ、小規模ながらこれまでに県内外で何度か公演を行った。子どもから大人まで、また、異なる国の人々にも通じる、わかりやすい表現方法であることが人形劇の魅力のひとつと大河原さんは言う。

〈現在〉の放射能がもたらした影響についての物語の台本は、友人夫婦の実体験が元となっており、「ライフワークとしてずっと語り継いでいく」と決めている話だ。

「長年おいしい立派な原木しいたけを作っていた農家の友人が、汚染が原因で廃業したんですが、その際 6万本の原木と 4トンのしいたけを捨てなければならなかった。これまで 35年間かけて築いてきたものがすべて放射性廃棄物になったんです。農家には、育てていた家畜を殺さなければならなかったり、故郷の田畑を捨てざるをえなかったり、不条理で悲しい話は尽きません。それらすべての象徴として、この原木しいたけの話を伝えていきたい。被害を経験した一農家として、人形劇で表現して、継承していきたいと思っています」

原発事故で深刻な被害を受けた第一次産業の生産者たちは、国や自治体からの支援もないに等しい中で、自力で策を練って絶望の淵から這い上がっていくしかなかった。これまでの生活であり、自分自身であった生業を諦めなければならなかった人も少なくない。誰もが、根拠もなく自分だけはそうならないと考える危うさが、時を経て増している。

「まさかあんなことが自分の身に起こるなんて、私自身もまったく思っていませんでした。みんなギリギリ自分だけは大丈夫と思いがちです。でも原発事故は起き、多くのものが破壊された。原発がある以上、あなたの住んでいる場所、あなた自身に同じことが起こらないという保証は絶対にない。他人事ではないのだということに立ち返って考えてもらえたら」

福島に生きる人々の証言は、私たちの乏しい想像力を補うためにある。他の誰でもない、私たち自身が苦難の当事者となることを未然に防ぐためにある。

  • * 検出下限値:約10ベクレル/キログラム。1800秒 1キロ当たりのもので、検体の密度や重量によって微妙に変わる。