「100歳まで生きて足りるのかは分からないけど、それでも福島の漁業が元通りになるのを、この目で見届けなければならないと」
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- Profile小野 春雄さん
- 福島県新地町で代々漁業を営む。2011年 3月 11日の東日本大震災で被災、津波によって弟を失う。震災に伴って起きた東京電力福島第一原発事故による放射能の海洋汚染について、漁業従事者として深刻な現状を訴えている。
福島県の浜通りの北端、太平洋に面した新地町は、東京電力福島第一原発から北に約 50キロにある港町。東電福島第一原発事故による放射能汚染で、小野さんら福島の漁師は、漁業の中断を強いられた。これまで漁は段階的に再開されてきているが、その一方で、原発敷地内に保管されている放射能汚染水の海洋放出が、現在問題となっている。
弟の分まで漁をするために
多くの命を飲み込んだ、東日本大震災から 10年。小野春雄さんは今年も、相馬港に足を運ぶ。同じ漁師で、あの日津波で亡くなった弟、常吉さん。毎年命日の 3月11日には、港に停泊した船の上で、常吉さんが好きだったビールを手向けてきた。
「船が倒れた。もう駄目だ」「いま行く」
あの日、船上に届いた悲痛な無線が、弟との最後の交信だった。小野さんらは、震災の日、津波の被害を避けるために沖に船を出していた。小野さん自身は無事だったが、別に船を出していた常吉さんは、巨大な津波によって船ごと行方が分からなくなった。常吉さんの遺体が見つかったのは、震災から四カ月後のことだった。
「腕のいい漁師だった弟の分も生きて、100歳まで漁師を続ける。そして、福島の漁業が元に戻るのを見届けなければ」
震災以来、小野さんはそう心に決めた。毎日の食事に気をつかい、漁がままならない中でも体がなまらないよう、毎日の山登りを自らに課してきた。
震災は津波だけでなく、原発事故による深刻な放射能汚染も引き起こした。
奪われた海
原発事故で広域に飛散した放射性物質は、福島の海にも想像以上に深い爪痕を残していた。原発事故直後、水揚げされた福島のコウナゴから、放射性物質が相次いで検出された。その結果、福島沖での漁は、約一年間にわたり全面的に自粛されることとなった。漁業者には賠償金が出ているだろう、という声もあったが、漁師にとっての漁とは、生計を立てるということ以上の意味を持つもので、それは金銭で補えるものではない。
震災翌年の 2012年 6月になって試験操業が認められ、タコや貝など限られた一部の魚介類の出荷が認められた。全魚種の出荷制限がようやく解除されたのは、2020年 2月のことだ。
「出荷制限が解除されても、操業自粛でいま漁ができるのは月に 10回まで。少しずつ漁に出られる回数は増えているけどね、まだまだ自由に仕事ができるとは到底いえない」
漁の回数や魚種だけでなく、操業できる場所や、漁の方法にも制限がある。また、たとえ出荷できたとしても、福島産の魚介類というだけで、他の産地のものより大幅な安い値がつく「風評被害」にも悩まされてきた。漁業による収入は、震災前に比べて激減した。それでも、小野さんたち地元の漁師は、この 10年間、かつての海を取り戻すため、我慢に我慢を重ね、少しずつ震災前の日常を取り戻しつつある、はずだった。
汚染水で振り出しに
たまった放射能汚染水を太平洋に放出するー。
東電福島第一原発では、毎日大量の地下水や雨が、原子炉建屋内に流れ込み、放射性物質を含んだ汚染水が発生し続けている。それらの汚染水は、原発敷地内に設置されたタンクに保管されているが、総量はすでに100万トン超。しかも放射性物質の除去処理をした「処理水」には、除去の対象としていないトリチウムだけでなく、ストロンチウムなどの放射性物質が残されている。汚染水の処理をめぐって、海洋放出を有力視するという政府の姿勢に、それまで耐え忍んできたあらゆる努力が無駄になるような思いに打ちのめされた。
「震災から 10年間、長く厳しい現実に耐え、以前の状態に一歩ずつ近づいていたところだったんです。それなのに、原発から汚染水が海に放出されたら、またすべてが一からやり直しになってしまう。政府から十分な説明や議論がないことにも納得できないですよ」
2020年 2月、国の小委員会は、放射能汚染水は「海洋放出処分が現実的」とする報告を取りまとめた。その後、政府は数回にわたり、業界団体などを対象に「ご意見を伺う場」を開催するなどして、海洋放出に向けて準備を進めてきた。だが、海洋放出への反対や懸念が、各地で噴出している。小野さんもこれまで、海洋放出について断固反対の声を上げ続けてきた。
「長いこと漁ができていないわけだから、海もだいぶ変わっているはず。だけどそうした海の変化すら調査することができていない。その上、汚染水が放出されて、買い控えなどが起これば、廃業する漁師も出てくるかもしれない」
漁業を立て直していくために、自粛や自主検査で 10年かけて積み上げてきた信用が一瞬にして失われるかもしれない瀬戸際に立つ福島の漁業。この現実は、政府が掲げる「震災からの復興」からは、かけ離れたものだ。
漁業の復活を見届けるまで
「原発事故から 10年経っても、何ひとつ解決していない。原発問題に加えて、いまは新型コロナウイルスの拡大で、さらに先行きが不透明になっているしね。漁師としてやっていけるのか・・・まったく将来が見通せないよ」
小野さんの率直な言葉から、10年の歳月を経ても今もなお残る、震災や原発事故による深い傷跡が、まざまざと浮かび上がる。
何より気がかりなのは、これからの福島の海がどうなるのかということ。小野さんの 3人の息子たちも、父の背中を追い漁師となった。生業が奪われそうになっている今、本当に漁師にさせてよかったのかという思いが頭をよぎる。
「放射性物質が含まれた汚染水を海に流したら、福島の海や漁業はいったいどうなってしまうのか。そんな先の見えない仕事を、子どもにさせようとする親はいないですよ。このままでは、福島で漁師になろうという人はいなくなってしまう」
だからこそ、安全な海を取り戻すのを見届けるまで、漁師を続けなくてはならないと、小野さんは語る。
「10年が経ったといっても、道半ばもいいところ。問題は汚染水に限らないし、先行きはわからない。30〜40年かかると言っている廃炉計画だって、そもそも予定通り進むのかもわからなくなっている。100歳まで生きて足りるのかは分からないけど、それでも福島の漁業が元通りになるのを、この目で見届けなければならないと思っています」
代々営んできた漁業を、子や孫の世代へ継承できるよう、東電福島第一原発の本当の収束と漁業の復活をなんとしてでも見届ける — そのために、小野さんはこれからも、現役の漁師として福島の海を守るために声をあげ続ける。