「針が振り切れるような放射線量を浴びた住民がいたという記録を、残してはまずいと思った人がいたのではないか・・・この違和感は一生消えません」
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- Profile菅野 みずえさん
- 東京電力福島第一原発事故の放射能汚染により、福島県浪江町津島から避難。福島県内の仮設住宅を経て、2015年より家族と兵庫県に暮らす。浪江町の自宅は高濃度に汚染された帰還困難区域となり、戻れる見込みは立っていない。
太平洋沿岸の東端から北西に内陸に広がる福島県浪江町は、東日本大震災による地震と津波の被害も大きかった。海寄りの町役場は東京電力福島第一原発から約 8キロ。にもかかわらず、原発立地自治体ではないため、東電からも福島県からも原発事故に関する情報は迅速に入らなかった。震災発生翌日の 3月12日、独自に危険を察知した町役場は、東部から西の山あいにある津島地区へ避難するよう、町民に指示を出す。津島の菅野みずえさんの家でも、親族やその知人などを受け入れた。しかし、原発事故直後から、津島は非常に深刻な放射能汚染に覆われていた。そのことが明らかになったのはしばらく後になってからだった。
突然強いられた決断
同原発から菅野さん宅は約 27キロ。12日の夜までは、津島は安全圏だと考えていた。その日の夕方、菅野さんは、防護服にガスマスクで完全装備をした調査員と思しき男性に、車越しに「ここからすぐ逃げてくれ」と忠告を受ける。また、その夜に、原発から半径 20キロ圏に政府の避難指示が更新され、危機感が募り、菅野さん宅に避難してきた人々へさらなる避難を促した。中には乳幼児もいた。「子どもだけでも一刻も早く逃して」と菅野さんが言い、翌日には全員散り散りになって逃げた。ガソリンが尽きるところまで逃げよう、と。
菅野さん自身が避難したのはその三日後だった。津島地区には公式な避難命令は出ておらず、大半の住民がまだ残っていた。避難について話すと、あの原発が危ないわけがない、と反論する人もいた。家族が避難所の手伝いもしていたため、結局町が全町避難を決断する 15日まで留まっていた。
「東京電力は大企業として万が一の備えを当然しているのだろうと、思っていました。『いかなる災害にも耐えうる』と地域住民には説明がされていましたから・・・」
菅野さんは 2007年に夫の実家である津島に家族と移り住み、古民家を改築してようやく住まいが整って 8カ月後、原発事故に遭った。津島は移住者もすぐに受け入れてくれる温厚な土地柄で、同じ名字の住民が多いため、子どもから年配者までお互いを下の名前で呼びあうような人々の結びつきの強いコミュニティだった。家の広い庭には夫の父が植えた記念樹があり、その木に作ったブランコで菅野さんの息子も幼いときに遊んだ記憶がある。孫を持ったら、その枝にまたブランコを作ってあげる日が来るのだろうと、菅野さんは思っていた。
人々のつながり、住まい、家財道具、庭、豊かな自然、思い出。築いた暮らしのすべてを置いて、身ひとつで家族と自宅を後にした。
振り切れた針
避難の途中、50キロほど西の郡山市で、菅野さんはスクリーニング検査を受けている。
「測定器を私の上着と髪に当てたとき、パタンと針が振り切れ、10万 cpm*という値が見えました。それが何を意味するのか、知るのはずっと後になってからでした。その数値を記録に残すということを、県も国もしていない。針が振り切れるような放射線量を浴びた住民がいたという記録を残してはまずいと思った人がいたのではないかと、私は思っています。この違和感は一生消えません」
2016年、菅野さんは甲状腺がんを発症したが、記録がないため、初期被ばくとの因果関係について突きとめられないままでいる。
「浜通りの道の駅で、Tシャツなどに付ける襟部分だけや幅の広めのチョーカーが売られていたんです。お店の方に聞くと、甲状腺がんの手術痕を隠すために首周りを覆うグッズの需要があるとのこと。首に私より大きな手術痕のある若い娘さんも見かけました。私はもう年だからいいんです。若い子たちと、できることなら変わってあげたい」
何も知らされていなかったのは住民だけ。それは町職員も同じだった。政府の危機管理シミュレーション・システム SPEEDI(スピーディ)により、高濃度の放射性物質を含む放射能雲(プルーム)が津島方面に流れることは事前に察知されていた。その拡散予測を福島県が把握していたにもかかわらず浪江町に伝えなかったことが、事故から二カ月後に明らかになった。浪江町の故・馬場有(たもつ)町長は、謝罪する県の担当者にこう叫んだという。
「汚染予測がわかっていたら、私は決して町民を津島地区には逃さなかった。あのとき、避難所の外ではたくさんの子どもたちが遊んでいた。あなた方の行為は〈殺人罪〉にあたるのではないですか?」
人間の傲慢さ、動物への罪
避難時、一時避難所で面倒がみられない、あるいは避難所に向かうバスに同乗させられないなどの理由で、家に置き去りになった犬や猫が多くいたことも菅野さんの心を痛めた。どうにか生き延びてくれとリードを外され、外に放たれた犬もいた。放射能で極度に汚染されているとは知らず、すぐに戻ってこられると考えてそうした飼い主も多かった。連れ出すことができても、避難先の建物に入れられず、車に長時間残された犬が、不安感からか自傷行為をして血だらけになっているのも見かけた。
全町緊急避難という今まで経験したことがない切迫した状況で、泣く泣くそうせざるをえなかった人々の行動に対し、インターネットには「人間が逃げるために動物を見殺しにした」などと誹謗中傷が書き込まれた。
「避難が長引くに連れ、残したペットや家畜のことを案じて帰ろうと思っても、徐々にバリケードが張られて立入禁止になっていった地区もあって。自宅に置いてきて行方不明になっていた犬を、探しに探して隣県で見つけ、連れ戻した人もいました」
幸い、菅野さんは愛犬マツコを連れて避難することができた。また、入った仮設住宅にペットを持つ世帯用の棟があり、犬との同居が叶った。だが、暮らし始めてから 8カ月経った冬のある日、マツコは血小板減少症で臓器中から出血して命を落とした。吐き出した血が白い雪の上に落ち、辺りを赤く染めた。狭い仮設の中でもおとなしく留守番ができる賢い子だった。他の病は患っておらず、地表近くで放射性物質を多く吸い込み、また毛にも長く付着していたことによる被ばくが原因ではないかと、菅野さんは考えている。
「マツコを診てくれた獣医さんに、被ばくが原因ではないか?と尋ねたんです。すると『人間に対するデータもないのに、動物に対するものはあるわけがない』と言われて。だったらせめてこの死を未来に役立ててほしいと、解剖をしてくれるところを探しましたが、当時は見つかりませんでした」
獣医の言葉を聞き、菅野さんは「いま自分たちはモルモット以下なのだ」と感じた。よく「福島県民はモルモット」といわれるが、あれは違う、それ以下だ。モルモットは実験台でも調査・分析に使われるが、私たちは調べてももらえない。調べなければ、なかったことにできるから・・・。
当時、菅野さんの自宅は浪江町内のモデル除染地点として短時間の立ち入りが許されていたため、家の庭にマツコの亡骸を運び、桜の木の下に埋めた。いつの日か、死因の詳細が明らかになるように、検体に備えて灰にせず土葬にした。
マツコを皮切りに、犬種や歳を問わず周囲の犬もガンや他の病で次々と命を落とし、2015年に菅野さんが仮設住宅を退去するまでの 4年間で、ペット棟の 40軒弱にいた犬はほとんどいなくなった。
「以前、津島の家に点検に戻った際、飼われていた犬が完全に野生化して繁殖し、十数頭の群れをつくっているのを見たことがあります。野犬だから凶暴なのではなく、人間に裏切られた記憶もあったのでしょうね。はじめて犬を怖いと感じて、外にしばらく出られませんでした。2011年の夏前に、放たれたべこ(牛)の群れも見ました。浪江の牛飼いはべことの関係が親密で、人間に慣れているから寄ってきてね。牛の優しい眼を見て、人間は本当に酷いことをしたなと」
日陰のくぼみ
菅野さんは 1995年に起きた阪神・淡路大震災も経験している。当時、崩壊した神戸の町を回り、社会福祉士として高齢者・障がい者の安否確認に当たった。その体験から、菅野さんは仮設住宅の劣悪さを知ってはいたが、まさか自身が入居することになるとは思いもしなかった。
「痒さで目覚めると、赤アリの大群が布団に入っていたり、隣室の人のたばこの煙で部屋の空気が紫になったりね。夏は鉄の骨組みや鉄板屋根が焼けて室温が 40度に達して、冬は断熱がないので底冷えしました。風呂釜も簡易なので、入っていたらお尻から冷えていくの」
仮設住宅の住民で自治会ができ、役場等に陳情を重ねた結果、環境は徐々に改善されていったが、決して快適とはいえない生活だった。各地にできた仮設住宅に暮らす避難者への対応や受け入れ体制は、各自治体でまちまちだったが、菅野さんの暮らした福島県桑折町(こおりまち)は、町営施設が利用可能な準住民として受け入れてくれ、親切だった。
仮設住宅では要介護の高齢者も多く出てきたが、要支援にならない取り組みまでは町はやってくれない。元社会福祉士として、菅野さんは高齢者たちとの集いの場もつくり、住民同士で支え合った。
「苦しい中でも仮設の住民同士で励まし合い、おばあちゃんたちと女子会もしましたし、楽しい思い出もあります。土地勘がない場所で暮らすというのは厳しいこと。でもね、一番辛かったのは一部の地域住民からぶつけられた心ない避難者への言葉ですね」
原発事故・被ばく・避難の実態。政府が、正しい情報をきちんと説明してこなかったがために、正確な理解が進まなかった。特に賠償金に関する無理解は、辛辣な声となって浴びせられた。「賠償金をもらっているんだろう」「その賠償金は俺らの税金の一部だろう」— 情報が錯綜して落ち着かない震災後の数年は、避難者に限らず人々に不安や不満がうずいていた。その感情の掃き溜めになったのが避難者だったのではないかと、菅野さんは感じている。
「雪は、高い場所ではさほど積もらず風に吹き飛ばされて低地に積もる。低地の日陰の、一番くぼんだところに吹き溜まって、すべて溶けてもそこだけ雪がずっと残る。それが避難者です」
まだ「3月10日」を生きているあなたへ
今でも一年に数回、津島の自宅へ点検や墓参りのために訪れるが、家屋は人の暮らしがまったく想像できないほどに朽ち、藪に覆われている。豊かだった津島の暮らしと愛着のあった家を想いながらも、いま菅野さんは兵庫県内の古民家に暮らしている。津島と同じ暮らしをしないと悔しいという思いから、人里離れた農村を選んだ。日本中どこに行っても原発は近くにあるが「一番近い原発から 80キロ」であることを確認して、兵庫に移住を決めた。
原発を許してしまった世代の責任として、また、被災者・避難者として、この事実を伝えていかなければ、いつか自分が加害者になってしまう。そうした思いから、体験を語る報告会や、原発立地自治体の避難計画の不備を指摘し、再稼働反対を訴える活動も積極的に行っている。原発立地町で、町職員に「あなた自身も被災者なのに、支援者にもならなければならないという覚悟はありますか?」と尋ねたこともある。
「避難をして実感したのですが、非常時に個人のできることには限りがあり、行政頼みになる部分は必ずある。町職員は、自分も辛いのに住民の苦情を聞き、矢面に立たなければならない。県や国ではそういうことはないですよ。窓口で『自分も被災者だ!』と泣き出した、疲弊しきった町職員も見てきた。調査でも、精神を病む被災自治体職員が非常に多いことがわかっています」
報告会では、菅野さんは人々にこう問いかけている。
「原発がある限り、私の身に起こったことは、いつかあなたの、誰かのことになります。私は〈3月10日〉を踏み越えてしまった今を生きているけれど、あなた方はまだ〈3月10日〉の分岐点にいる。これ以上、子どもたち・若い世代に重荷を背負わせない方角はどっちか、大人たちがどうか考えてください」
- *cpm:測定器で 1分間に計測された放射線の数そのものを表す。衣服や体の表面に付着した放射性物質を測る測定器(ガイガーカウンター等)で使用される単位。当時の「福島県緊急被ばく医療活動マニュアル」では「避難時の検査で 13,000 cpm 以上の人たちは、甲状腺検査を受け、安定ヨウ素剤を服用する」とされていた。