「あの日捜索が続けられていれば、助けられた可能性はゼロではなかった。中断しなければならない状況をつくったのは、どう考えても原発事故です」
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- Profile木村 紀夫さん
- 福島県大熊町で被災後、津波で行方不明になった次女を捜すために、避難先のいわき市(2019年までは長野県)から帰還困難区域である大熊町に通い続ける。家族との思い出の残る海岸近くの元自宅付近は除染廃棄物の中間貯蔵施設となっている。
東日本大震災による死者・行方不明者は二万人超。マグニチュード 9.0 の地震そのものに起因するものよりも、それにより引き起こされた津波に巻き込まれたことによる人的被害が九割といわれている。この大津波によって東京電力福島第一原発の施設全体が浸水し、冷却機能が失われた結果、原子炉が相次いで炉心損傷を起こし、爆発を招いた。観測史上最大規模の地震・津波による甚大な被害への策もままならない中、政府や福島の自治体は原発事故への対処に大きく力を削がれることになった。高い放射線量が障壁となり、福島では他の地域に比べて行方不明者の捜索や救助にも困難がつきまとった。
いのちは津波で奪われたのか、置き去りにしたからか
震災時、木村紀夫さんは、東電福島第一原発が立地する大熊町に暮らしていた。自宅から原発はわずか約 3キロ。津波に家をさらわれ、行方不明になっていた家族を捜し回っていた翌 3月12日、原発から 10キロ圏内に避難指示が出され、無事だった母と長女を連れ、急いで町を後にしなければならなかった。警戒区域は町全域におよび、住民の立ち入りが制限される中で、福島県内や近県の立ち入れる地域の避難所等でチラシを配るなどして残る家族の手がかりを求めて回った。4月に父と妻の遺体が発見されたが、次女の汐凪(ゆうな)さん(当時 7歳)だけが見つからないままだった。5月の終わり、ようやく自衛隊による警戒区域内の捜索が行われたが、手がかりはなかった。
現在は年間 30日の滞在が許されているが、震災直後から数年間は、当時避難指示区域内だった自宅跡に一時帰宅が許されたのは三カ月に一度の二時間だけ。当時の避難先の長野県から約 450キロの距離を幾度も往復し、防護服に身を包み、その限られた時間の中で自力で汐凪さんを捜し歩いた。
時が経つに連れ、捜索に協力してくれるボランティアが増えてきたが、手作業でスコップで崩していくには、積まれた瓦礫は膨大すぎる量だった。環境省による捜索隊も参加し始めた 2016年 12月、自宅跡からほど近い場所で汐凪さんの遺骨の一部が見つかる。瓦礫に埋もれていた小さなマフラーに包まれるようにしてあった、首の骨の一部とみられる数センチのかけら。後日 DNA 鑑定の結果、汐凪さんのものだと確定された。ミニーマウスのついたピンク色だったマフラーは土色に染まっていた。行方不明になってから 6年近くが経とうとしていた。
汐凪さんが見つかり、改めて怒りの感情が溢れてきた。眠っていた場所が特定されたことで、津波によって亡くなったのではなく、避難せざるをえなかったために置き去りにしたことで亡くなった可能性があると感じたからだ。
「3月 12日の避難指示ギリギリまで周辺を捜索してくれていた地元の消防団がいて、人の声を聞いたという証言があったんです。見つかった場所を考えると、それは父や汐凪だったかもしれない。あの日捜索が続けられていれば、助けられた可能性はゼロではなかった。中断しなければならない状況をつくったのは、どう考えても原発事故です」
汚染土が積まれていく場所の下に
福島県内の除染で発生した土や汚染廃棄物は、最終処分までの間、中間貯蔵施設に保管される。東電福島第一原発周辺の、大熊町と双葉町の帰還困難区域内に約 16平方キロメートルに渡って広がるその施設の南端に、木村さんの元自宅は位置している。
さかのぼること 2014年、その自宅跡を含む一帯を国が買い上げ、中間貯蔵施設を建設することについての住民説明会が行われた。
「建設には協力できませんと言いました。行方不明者がその地帯にまだ眠っているかもしれないということを、そのとき環境省は把握していなかったんです。それも知らずに説明に来るのかと、呆れてしまいました」
木村さんは、そうした対応に不信感を持ち、中間貯蔵施設建設を進めるために行方不明者の捜索を行うという環境省の申し出をずっと断ってきた。また、家のあった跡地や思い出の場所にフレコンバックが並ぶことにも抵抗があった。しかし、汐凪さんを見つけたいという気持ちと、捜索に協力してくれているボランティアの方たちのためにも結果を出したいという想いが強くなり、環境省主導の捜索を認めた。個人では重機を入れることはできないが、国の捜索であれば重機を使っての作業が可能となる。結果、それが遺骨の一部の発見につながった。
いま自宅跡を含む一帯は中間貯蔵施設となってしまったが、汐凪さんが発見された近辺だけは造成されずそのままになっているという。汐凪さんの残りの部分を捜し続けていた木村さんだったが、施設敷地内にぽっかりと空いたその手つかずの部分を見て、すべてを捜し出さないことにも意味があるのではないかと感じ始めた。
「遺骨が見つからなくても、そのままにしてもらえるのであれば、慰霊の場所として残しておければいいのかな、と思うようになりました。あそこに汐凪はいるわけだけど、全部見つかれば終わってしまう。起こったことを伝えるために、あえて汐凪が見つからないようにしているような意志を感じるんです」
寂しいその一帯を少しでも明るくしようと、5年前から菜の花やひまわりを育て始め、開花時には鮮やかな黄色い花が一面を覆う。綿花や桑なども今後栽培したいと考えている。
原発を動かしているのは誰か
数年前、とあるイベントで東京電力の社長が「電気をつくることは命を守ること」と発言したのを耳にして、木村さんは電力を使う側の責任について改めて考えたという。
「多くの命を守ろうとしてうちの娘が命を奪われた可能性があるのか?とショックでした。だけど、そんなことを東電に言わせているのは誰なのか?それはきっと電気を使っている自分たちなんだろうなと。東電が悪いと言っても、世の中が変わらないと何も変わらない。再稼働はありえない。でも原発を再び動かそうとしているのは、東電ではなく自分たちなのでは」
電力会社が電気を湯水のように使うことを勧め、増える電力需要に合わせる形で原発は増え続けてきた。木村さんは、それぞれが電力の過剰消費について考え、節電に努めること、そして電気を使う側全員が自分たちの生活や経済様式を変えていかないことには原発をなくす道は遠いと感じている。
「中間貯蔵施設についても、原発周辺に集めておくというのは現実的な考えとしてはわかるけれど、やはり故郷なので、そうなってほしくはない。みんな電気を使っているじゃないか、みんなそれぞれの庭に(汚染土を)埋めようよ、とすら思います」
防災、原発事故と放射能汚染、そして毎日使用する電気について、自分ごととして考えてもらうために、伝える活動をしていきたいと語る。経験したことを伝えることで、誰かの命を救えるかもしれないと。
「救えたはず」を生まないために
木村さんの自宅から内陸に 5キロの場所にある双葉病院でも、高い放射線量が妨げとなり、自衛隊の救助や避難が大幅に遅れた結果 44名の患者の方々がバスの中や搬送先で亡くなるという人災が起きている。事故当時、双葉病院で副看護部長をされていた方は「病院が壊れて大変な状況でも(地震と津波だけであれば、患者を)助けられた」と証言している。
地震・津波だけだったなら救えたはずの命は、はっきりとは見えない形で幾様にも存在する。自然災害(地震・津波、豪雨、豪雪、火山噴火)と原発事故、テロリズムと原発事故、そして今、感染症蔓延と原発事故という複合災害の可能性も加わった。原子力災害は回避することのできる人災である。大熊町の人々の苦しみを教訓として、私たち一人ひとりの選択によって、これ以上〈救えたはずの命〉を生まない未来へ進むことは可能だ。