「守られるべき人権という一点でつながることができれば、被災者同士にあるさまざまな溝も埋まると思うんです。誰でもそれぞれの立場の痛みを訴えていい」

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Profile森松 明希子さん
原発事故から二カ月後の 2011年 5月、福島県郡山市から大阪へ当時 3歳と 0歳のお子さんを連れて避難。東日本大震災避難者の会〈Thanks & Dream〉主宰。原発賠償関西訴訟原告団の代表も務める。国内外で講演を続け、被災者・避難者の避難の権利について訴えている。

東日本大震災(地震、津波および東京電力福島第一原発事故)による避難者数が最も多いのは福島県で、原発事故による放射能汚染からの避難が大半を占める。福島県民の避難者は2011年9月時点で約15万人、2012年の約 16万人をピークに減少傾向とされているが、2020年においても、分かっているだけでも約4万5千人が避難生活を送っている。

原発事故による避難者は、国が強制避難を指示した区域からの「強制避難者」と、それらの区域外から自らの判断で避難した「自主避難者」に二分されている。2011年9月の統計上では、約15万の避難者数の内訳は、強制避難者が約 10万人、自主避難者が約 5万人。近年では自主避難者は約 1万 5千人と言われているが、いずれの数も推計とされており、実数はまったく把握されていない。実際は出ているデータよりも大きな数字になりうる。

個人に委ねられた決断

「原発事故後、原発付近から避難が始まり、そのうち汚染の程度に合わせて順番に中通り(福島県中部)にも国や県から避難指示* があるものだと思って、待っていたんです。でもそんなことは一切なく・・・」

震災時、森松明希子さんは、東電福島第一原発から約 60キロ西の郡山市に家族 4人で暮らしていた。原発事故からまもない 3月下旬、規制値を超える放射性物質が検出されたとして、政府は福島県産の葉物野菜の出荷を停止。その翌日、郡山市に隣接する須賀川市のキャベツ農家の男性が汚染を悲観して自死したという報道が流れ、衝撃を受けた。身の周りの汚染に危機感を抱きつつもどうしてよいのか決めかねている中、4月に長男の幼稚園入園式が予定通り行われ、迷いながらも入園させると、新入園予定だった世帯数の三割が入園していなかった。

「いざ幼稚園が始まると、放射能対策で園庭遊びは禁止。毎週近所で親子連れが去っていくのを見聞きして。なのに、実際の汚染に関する情報がとにかくない。ここにいて安全なの? 逃げた人たちがパニックを起こしているだけなの? そこまで酷い状況なら行政から連絡が来るよね?と、毎日が葛藤の連続でした」

原発事故から二カ月後、悩み抜いた末、勤めのために郡山にとどまる夫と離れ、森松さんは乳幼児二人を連れて出身地である関西へ避難した。子どもたちの被ばくのリスクを考えるとやむを得ない選択だった。

福島県からの自主避難者は、森松さんのような母子避難が多いのが特徴だ。中には、避難指示地域以外の場所から自分だけが逃げてきたことについて、地元に残った他の母親たちや義理の親などに対し、負い目を感じる母親も少なくなかった。

責任を追及される側がつくった線引き

こうして自主避難者となった森松さんは、強制避難者のそれとはまた異なる苦悩を経験する。公的支援の少なさ、二重にかかる生活費、離ればなれになった家族が会うための財政的負担や頻繁には会えない精神的負担、先行きの見えない不安、問題は山積みだった。それは今も続いており、避難の継続が最も難しい部分である。

避難に「政府のお墨付き」があるか・ないかは、立場に大きな違いを生んだ。放射能の危険から逃れるために、大切な暮らしの一部を置いて住まいを移さざるをえなかったのは、どの避難者も同じのはずだが、自己判断による避難は正当性が低いように扱われることがあった。世間からの差別、避難者間の分断。母子避難の場合では、家庭内で理解が得られずに、夫から仕送りが止められるなどして避難断念や離別に至るケースもあり、経済的に苦しい人も多い。

「国が定めた区域外からの避難は〈自主〉避難。別にしなくてもいいのに避難した人々の自己責任、という印象付けが行われたように感じます。誰がそうした避難者の種類分けをしたかといえば、事故を起こした側の東電であり、国なんですよね」

抜け落ちている人権意識

強制か自主か、賠償金をいくらもらっているか、逃げたくてもできずにとどまった人・逃げた人、母子避難か・家族避難か・・・被災した者同士なのに、その中で分断や偏見が生じていく様子に、何かがおかしいと森松さんは考え始める。

「避難者交流会などで『自分はまだいいほう、もっと大変な人もいるから我慢しないと』『誰々はマシ、私はこんなに辛い』というような声を聞くんですね。被災者同士で苦境を比べる。それぞれの不満が向かうべき先は、他の被災者ではなく、国や東電ではないのか。自分が持っている〈権利〉を手放してしまっている発想だなと感じて・・・でもその権利とは具体的に何なのか、ずっと考えていました」

あるとき、森松さんは、国連の「国内避難に関する指導原則」という国際ガイドラインの中で、国内避難民**と人権に関する記述を目にする。原発事故による避難者も、保護されるべき「国内避難民」に当たるのではないか。被ばくから逃れ、健康を求める権利は基本的人権 — それが侵害され続けている。誰一人として将来の発病を危惧しながらの生活を強いられることはあってはならない。霞が晴れた。

「強制避難者と比べ、自主避難者に『あなたたちは戻ろうと思えば戻れるだろう』という声がありました。自主避難者は政府からも周囲からも認められず、自らの判断が正しかったという根拠をずっと探してきた。今は根拠が〈当たり前の健康を享受する権利〉だとはっきりと言える。守られるべき人権という一点でつながることができれば、被災者同士にあるさまざまな溝も埋まると思うんです。誰でもそれぞれの立場の痛みを訴えていい」

人権意識が低い個人が悪いということでは決してない、と森松さんは強調する。この国の政治、教育、すべてを含めた社会の問題。個人の権利よりも、世間体が重んじられ、同調圧力が異様に強い日本社会の病理だ。

すべての災害時における人権保障という視点がひらけたことで、森松さんは被災者・避難者の権利について認知してもらうために積極的に活動を始める。2013年、福島から近畿地方への避難者からなる関西訴訟原告団の代表となり、国と東電に損害賠償を求めて提訴。2014年には、避難者同士が支え合うネットワークを作るために「東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)」を結成し、講演会やウェブサイトなどを通して情報発信を行っている。避難の長期化に伴ったサポート体制を整えていくために、当事者こそが自身の境遇や必要な支援について訴えていく必要がある。サンドリや民事裁判の動きを通して、自主避難者の実態への理解も少しずつ深まってきたと感じている。

消されていく避難者、変わりゆく避難者のかたち

2017年 3月、政府は自主避難者に対して実施していた住宅の無償提供を打ち切った。避難元と避難先で二重の家賃やローンを払うことができず、望まぬまま避難元へ帰還する人が多く出た。福島県は帰還の際の移転費用などを支援する策も打ち出した。この頃から、避難者数を力ずく金ずくで減らしていくような政策が進んでいく。避難指示が出ていた区域も一部「避難指示解除」という形で見直しがなされ、賠償も打ち切られ、強制避難者ですら帰還を促され始めた。

避難指示区域の解除を行っても思うように強制避難者の帰還が進まなかったためか、2020年末に政府は、原発周辺の自治体へ新規移住する人に最大 200万円の支援金を出す方針を発表。残る不安を取り除くためでなく「復興した街」を人為的に作るべく税金が投入されている。

「賠償打ち切りや避難解除を加害者側が決めているのもおかしな話です。強制避難者の『戻りたくても戻れない』という声をいいように拾い上げ『戻れるように避難解除したので戻ってください』と。でも、実際に高線量地帯へ帰る人はわずか。ここ数年、強制避難者の自主避難者化が進んでいます。でも今、この流れになってきたから、強制・自主関係なく一緒に政策の不備を訴えていける」

時が経ち、戻りたい人と離れたい人、残った人と避難した人の感情が打ち解けてきた気がする、と森松さんは語る。矛先を向ける対象を見誤らず、自分とは異なる選択をした人の気持ちを理解し、尊重すること。さまざまな立場の被災者が連携しなければいけない。それを束ねる糸が人権だ。

2018年、森松さんはスイスで開かれた国連人権理事会で、原発事故被害当事者の声を届けるため、スピーチに立った。「日本の憲法には『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有する』と書かれているが、政府は市民を守るための施策をほとんど行わず、避難者の帰還政策ばかりに注力している」と訴えた。日本政府は、国連人権理事会での勧告に対応すると答えたが、その後も被災者の人権を守るための法整備など目立った進捗は見られない。

すべての小さな手にも握られているもの

〈隠れ避難〉という言葉がある。避難者が、避難していること・避難していた過去を隠すことだ。福島にとどまって事故後の混乱時を乗り越えた住民への配慮と、帰還者が戻った土地での人付き合いで軋轢を生まずに暮らしていけるよう、子どもにも「親の転勤で県外にいたことにして」と言う親も少なくないという。それは子どもの人生の一部を黒塗りするようなもの。森松さんは、自分の子どもたちには「事実を隠す必要はない。隠れ避難が悪いのではなく、非難を恐れて隠さねばと思わせる社会がおかしいんだよ」と伝えている。

「母親の証言活動を、子どもたちがどう捉えているかわからないですが、私が何を大切だと考えているかは理解してくれているかな。次の世代が私たち大人の背中を見て、暮らしを守るには、自分の手にある権利を手放してはならないんだと気づいてもらえれば」

  • *原発事故後、政府は避難指示の基準を「空間線量が年間被ばく線量 20ミリシーベルト」と定めた(平時の日本の年間被ばく限度は 1ミリシーベルト)。自主避難者の多い福島県の中通りの事故直後の放射線量はこの基準には達しないものの、平時の数百倍以上あったといわれる。
  • **国内避難民:「自らの住居または常居所地から、特に武力紛争の影響、暴力が一般化した状況、人権侵害または天災もしくは人災の結果として、またはこれらを避けるために、避難すること、もしくは離れることを強制され、もしくは余儀なくされた個人または個人の集団で、国際的に認知された国境を超えていないものをいう」